The Turk - Wikipedia CC BY-SA 3.0

唯物弁証法のエッセンス


映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの「映画形式の弁証法的考察」(佐々木能理男編訳『映画の弁証法』所収)冒頭の一節。

事物の弁証法的体系が
頭脳のなかへ
抽象的な創造活動のなかへ
思惟の過程のなかへ
投影されて、生ずるのが
  弁証法的な思惟方法であり
  弁証法的唯物論であり
  哲学である

このような定式化に先立って、エイゼンシュテインは「マルクスおよびエンゲルスによれば、弁証法的体系とは世界の外部的な出来事の弁証法的な過程(実体)の意識的再現にほかならない」との言を他書から引用している。エイゼンシュテインによる定式化も他書の簡潔な表現も、いずれもマルクス=エンゲルスによる唯物弁証法(弁証法的唯物論)のエッセンス。

人間の思考力への絶対的信頼


マルクス主義が唱えた唯物弁証法は、人間の思考力に絶対的な信頼を置く。
なぜ信頼できるか。エンゲルスによれば、

われわれの主観的思考と客観的世界とが同一の法則に従っており、またそれゆえに両者がそれぞれの結果において結局は矛盾しえずに一致するはずだという事実は、われわれの理論的思考全体を絶対的に支配している。その事実は後者の無意識的かつ無条件的な前提をなすものである。 ――エンゲルス『自然の弁証法』(『マルクス=エンゲルス全集』第20巻、1968年、大月書店)

すなわちは、人間(主観的思考)と事物(客観的世界)のあり方は同じ法則に従っていて、最終的に両者が矛盾することはありえないから。このことは唯物弁証法に先立つヘーゲルの弁証法――次の一節の「この哲学」――についても同様。

思考過程が自然と歴史の過程と類似し、逆に後者の過程が思考過程に類似すること、そしてこれらのすべての過程には等しい諸法則が妥当していることを、この哲学がたくさんの事例で、またきわめてさまざまな領域で立証したことは否定できないことなのである。 ――同前

ボールダーの決闘


ある出来事を伝える二つのストーリー [A] と [B] がある。

ストーリー [A] は次のとおり。
1899年9月17日、コロラド州ボールダーの共同墓地で旧西部の決闘といった銃の打ち合いが行われる。
一方の当事者は、詩人にしてガンファイター、不動産投資家でもあるキム・カーソンズ、65歳。ウェスタン小説を書いたこともある。
もう一方はマイク・チェイス、50代。詳しい身元は不明。
両者はともに死亡したが、どちらの銃からも発砲された様子はなく、一丁のライフル銃による遠隔射撃で絶命したと見られる。マイク・チェイスは前方から胸を撃ち抜かれ、キム・カーソンズは背中を撃たれていた。
新聞はこの事件を、共同墓地の写真や、死体の位置やライフルが発砲されたと思われる場所を示す図を載せて、大々的に報じた。また、キム・カーソンズの小説『誰だキエネス?』のある箇所を引用・掲載した。

ストーリー [B] は次のとおり。
1899年9月17日、コロラド州ボールダーの共同墓地で向かいあうマイク・チェイスとキム・カーソンズ。
マイクの後方、10ヤードほど離れた大通りをはさんで、マイクの助っ人たち。
ふと既視感デジャビュにかられて、マイクは敵の助っ人の姿を探す。
視線を走らせるだけで、情勢は見てとれる。
敵の助っ人たちは衣装をととのえ、ゲートルを付けて待機している。彼らは小枝で編んだショルダーバスケットからサンドイッチをほおばり、ブリキのカップにビールをついでいる。一本の木に数丁のライフルがもたせかけてある。
はめられたことに気づきながらも、キムとの距離を詰めはじめるマイク。
8ヤードの距離でキムは片手を勢いよく上げ、マイクに向かって人差し指を突き出す。
「バン! おまえは死んだ」
何もつかんでいないキムの手に銃を幻視して間合いを狂わされるマイク。彼の銃撃は外れ、直後にキムのはなった弾丸がマイクの心臓上部に命中する。水銀の破裂する音がバシャと鳴り、大動脈がちぎれて吹き飛ぶ。

ストーリー [A] と [B] は両立しない。
日時、場所、登場人物は一致するが、決闘の結果は一致しない。
一方で、たがいに補いあえる細部がある。
これらのことをどう考えるか。
(ストーリー [A] で言及されている小説『誰だ?』の引用箇所と、ストーリー [B] でマイクが感じたとされる既視感のあいだにはあるつながりが隠されているはずだが、それについては今は措く)

水に落ちた犬か


1991年、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)崩壊。
水に落ちた犬は撃つなとも、撃てともいう。
マルクス、エンゲルス、共産主義、唯物史観、唯物弁証法、これらのものは水に落ちた犬か否か。
および、水に落ちた犬であるとして、それを撃つことの是非。

寒い国から帰ってきたスパイ


ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963年)の一節。宇野利泰訳。
物語の背景は西側諸国(自由主義陣営)と東側諸国(社会主義陣営)の対立。

「誤解しているわ」と、彼女はいった。「まるっきり誤解よ。わたし、神なんか信じない」
「では、なにを信じている?」
「歴史」
 かれは一瞬、おどろいて、彼女を見た。そしてそれから、笑いだした。
「リズ、おどろいたよ。まさかきみがコミュニストとは」

歴史を信じるとは、マルクス主義の歴史理論を奉じ、プロレタリアの側にあって戦うことの表明。
歴史が信仰の対象となっている。

マルクス主義の歴史理論では、すべての歴史は階級闘争の歴史であったとする。
そのうえでマルクスらは自身の時代(19世紀・中後期)を階級闘争史の最終局面にあると見て、プロレタリアート(労働者階級)とブルジョアジー(資本家階級)の戦いにおいてプロレタリアートが勝利するとした。その後はプロレタリアート独裁の体制を経て、支配階級が被支配階級を支配するための道具である国家(これもマルクス主義による国家観)は消滅する、と。

胴が長く、脚も長く、ぶざまといってよいほど長身の女だった。背をひくく見せるために、かかとのないバレー靴をはいている。顔立ちもからだとおなじことで、造作が大きすぎることから、不器量と美しさのあいだをさまよっている。年はおそらく二十二か三。ユダヤ種だ。

『寒い国から帰ってきたスパイ』の主人公リーマスは、職業安定所の紹介で図書館に仕事を得て職員のリズと知り合い、やがて愛し合うようになる。
リーマスは西側の諜報機関員。図書館の仕事についたのは、東側での活動にそなえて身分を偽造しておくため。
リズは社会主義運動の末端にいる活動員。平凡で非力だが、善良な。
リズを諜報活動の小道具に仕立てる工作が、リーマスもリズも知らないところで西側機関によって進められている。それを察して東側の諜報機関も動き出す。

歴史哲学テーゼ I


よく知られている話だが、チェスの名手であるロボットが製作されたことがあるという。そのロボットは、相手がどんな手を打ってきても、確実に勝てる手をもって応ずるのだった。それはトルコ風の衣裳を着、水ぎせるを口にくわえた人形で、大きなテーブルの上に置かれた盤を前にして、すわっていた。このテーブルはどこから見ても透明に見えたが、そう見えるのは、じつは鏡面反射のシステムによって生みだされるイリュージョンであって、そのテーブルのなかには、ひとりのせむしのこびとが隠れていたのである。このこびとがチェスの名手であって、紐で人形の手をあやつっていた。この装置に対応するものを、哲学において、ひとは想像してみることができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは、誰とでもたちどころに張り合うことができる――もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない神学を、それが使いこなしているときには。 ――歴史哲学テーゼ I

引用は野村修訳「歴史哲学テーゼ」(今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』所収)から。

「歴史の概念について」(通称「歴史哲学テーゼ」)はヴァルター・ベンヤミンの遺稿。
歴史は科学にあらず、神学である。あるいは、神学でなければならない。 ――これが「歴史哲学テーゼ」の一貫した姿勢。冒頭のテーゼ I は、そのことの宣言。
史的唯物論はかならず勝つ。
なぜなら、かならず勝つべく仕組まれた論であるから。

ベンヤミンはマルクス主義の用語を使い、マルクス主義者であるかのような姿勢で語る。
ただし、エンゲルスによって整えられた唯物弁証法とベンヤミンの弁証法は別物、とくに歴史理論において。前者が科学を自称しながら、(おそらくは自覚なしに)観念論に陥っているのに対し、ベンヤミンの歴史思想は恣意を自覚した非科学。

歴史的唯物論の原文は historischer Materialismus。エンゲルス『空想から科学へ』の英語版序文で historical materialism として用いられたのにはじまるという。
鹿島徹訳・評注『[新訳・評注]歴史の概念について』によると、「歴史哲学テーゼ」の別稿では、稿を通じて史的唯物論の代わりに史的弁証法 historischen Dialektik が使われているとのこと。テーマに添った用語としては、史的弁証法のほうがよさそう。

誰が史的唯物論者か


歴史哲学テーゼ II。
われわれは待たれていた存在なのだという。
誰に?

かつての諸世代とぼくらの世代のあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にとひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が付与されているが、過去はこの能力に期待している。この期待には、なまなかにはこたえられぬ。歴史的唯物論者は、そのことをよく知っている。 ――歴史哲学テーゼ II

引用は同じく野村修訳「歴史哲学テーゼ」から。

「約束」の原文は人と会う約束をも意味するドイツ語 Verabredung、ベンヤミン自身によるフランス語手稿でも同様の意味を持つランデブー rendez-vout。
われわれ世代とわれわれに先行した世代とのあいだには、恋の約束にも似た出会いの約束があり、われわれ世代は過去の世代の期待を担ってこの世に生まれてきた。どの世代とも同じように、われわれ世代にもかすかながら救世主メシア的な能力は付与されていて、過去はこの能力に期待しているのだが、この期待に応えるのは容易なことではない。いっぽうで、この期待を無碍にすることもできない。

と、このように語られたあとで言及される史的唯物論者に、ベンヤミン自身は含まれるのか。
文脈から言って含まれるだろう。すると、死せる世代と生ける世代のランデブーというファンタジーを、唯物論者が歴史理論として語ったことになるのだが。

更新履歴


2019-11-23 〈誰が史的唯物論者か〉を追加。
2019-11-09 〈歴史哲学テーゼ I〉〈人間の思考力への絶対的信頼〉を追加。その他、修正。
2019-10-21 〈寒い国から帰ってきたスパイ〉、その他を追加。
2019-10-05 〈ボールダーの決闘〉を追加。〈唯物弁証法のエッセンス〉に加筆。
2019-10-02 新プロジェクト「弁証法小説」を開始

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